パスワードの秘密

以前、雑誌に連載していた文章です。店のPRではなく、情報公開の一環です
「良夫さん,インターネットやってたわよね」
 夕食後,良夫がナイターのTV放送を寝転んで眺めていると,妻の智子が話しかけてきた.何やら,思いつめた口調である.
「ああ,やってるけど,それが何か?」
 一瞬,良夫はピンときた.H画像の疑いをかけられている,と.しかし,良夫はとうの昔にそっち方面は飽きてしまっている.
「インターネットするとき,パスワードを入れるんでしょ」
どうやら,別の話らしい.
「パスワード?まあね,それがどうした?」
「パスワードって,自分が好きなのを決めるの?」
「そうだけど,それがどうしたって?」
良夫は智子の真意をはかりかねていた.
「男の人って,パスワードに女の人の名前を使うことが多いっていうじゃない?昼のTVでやってた」
意外な展開である.
「あ,そう?」
「良夫さんはどうなの?」
「う,うーん,オレ?どうかなあ」
つい,あいまいな返事をしてしまったのが運の尽きである.
「良夫さんってば,あやしいのね.ほんとうはどうなの?」
「パスワードのことは他人には言わないのが原則だから,たとえ,おまえの質問でも答えられないな.壁に耳あり,障子に目ありっていうし」
「あら,イヤに冷たいんじゃない?ますますあやしい.ひょっとして,私以外の女の名前をパスワードにしているんじゃないの?初恋の女とか,不倫相手とか,浮気とか,失楽園とか,ダディとか」
何やらぶっそうな方向に進んでいる.
「だからあ,パスワードのヒントになるようなことは言えないんだってば!」
こういう場合は,大声で逃げるに限る.
「アッらぁ!実の妻にも言えないの!あぁ,そうですか,そうですかぁ.あなた!私たち,結婚するとき,お互いに秘密を持たないようにしようって誓ったじゃない?あなたは,あのときの誓いを忘れたの?あぁ,そうなのね!」
大声作戦は,火に油を注いだ.
「夫婦の誓いとパスワードとは別の話だろうが.わからないのかねぇ」
「どこが別なのよ.ねえ,あなた,言って,お願い.正直に言ってくれるなら私も許すから」
「許すも許さないも,それがさあ,言えないんだよな」
「なぜ?なぜ言えないの?ひどいわ.あんまりよ.しくしく」
 智子はいきなり泣き出した.良夫は頭の中がぐらぐらした.なんとかしてこの状況から脱しなければならない.こうなったらウソも方便である.
「だ,だって,照れるだろ?」
「照れる?」
「たしかにね,女の名前をパスワードにしてるよ」
「ほら,やっぱり」
「安心しろって.その女性ってのはね,おまえだよ.智子.ホラ,照れるだろ?言えないよ」
「そうなの?じゃ,本当かどうか,確かめましょ.tomokoがどうだっていうの?パスワード全部言って」
パスワードを確かめられたら困ってしまう.
「全部は言えないよ.言ってしまったらパスワードの役目を果たさないし」
「あなた,私は,あなたの実の妻よ.私,妻なのよ.わかって!それでも言えないの?」
良夫もそれはわかっている.わかりたくなくてもわかってしまうのだ.
「あー,うーん,ごめん,パスワードにヒワイな言葉をまぜてあるんで,他人には言えないんだよ」
「ヒワイな言葉?なんなの?いまさら妻に向かってヒワイも何もないでしょ?そう!tomokoってのもウソなんでしょ?他の女の名前にヒワイな言葉をまぜたんでしょ?」
 いくら結婚後20年を経過しているからといって,夫が妻に対して,ヒワイも何もないっつうのは極論である.いつになってもヒワイはヒワイである.
「あぁあ,ヒワイってのはほんの冗談だけどさ,とにかく,他の女の名前なんか入れてないって」
「だから,確かめてみましょうよ.この場で」
「明日じゃだめか?」
「決まってるじゃない,今すぐ」
「それだけは勘弁してくれよ」
「あぁ,やっぱり,そうなのね.うすうすそんなことじゃないかとは思っていたけど」
「そんなことって?何?」
「パスワードの中に意中の女性の名前を隠してるってことよ」
「そんなことないってばぁ」
「むきになって否定するところがますますあやしいの.シクシク.いいわ,別れましょ.そうよ.私たち.もうダメね.別れましょ,きれいさっぱり別れましょうよ」
結論が極端である.残るは,この一言しかない.
「もう寝るぞ」
 良夫はそう言って立ち上がると,わめきちらす智子の声を背に,寝室へと向かった.